「玉依姫」を読みました&私が小説を読み始められない理由
こんにちは!
ローゼンです。
※本格的なネタバレは「玉依姫の感想」からですが、それまでも八咫烏シリーズ全般の若干のネタバレを含みます※
私が小説を読み始められない理由
私は小説が好きなんだけど、読み始めるまでに結構時間がかかったりする。
前noteの記事でも似たようなことを書いていて。
小説でも漫画でも
新しい世界に飛び込むには、気力がいるのだ。
それも、とてつもない気力が。
「私はこれを好きになれるだろうか」というプレッシャーを抱えながら、新しい世界と新しいシステムに少しずつ慣れていく。
せっかく慣れたのに好きになれなかったら、それまでの労力が無駄になってしまいそうで怖いんだと思う。
これが2月の記事。今は7月。
この間、本当に、買わなかった。八咫烏シリーズの続きを。
八咫烏の続きを中々買えなかったのは、上記の通り、「気力が必要」だったからだと思う。これについてはまた後で書くけど。
ただ、私が小説全般、読み始めるのが遅い理由がもう一つあることに気付いた。
それは私の性質でもあるんだけど、
「何かをやろう」と思いかけた瞬間に、その先の未来を勝手に予想して、ネガティブなことを見つけて、やる気がなくなってしまう
これだと思う。
私は小説を読むのが好き。
確かに、世界に入り込むには気力がいる。そりゃ、世界の境界を超えるから当たり前なんだけど。気力がいる。でも、読み始めたら引き込まれていく。
気力をかけた分、引き込まれる。引っ張られる。
だから、用事がない限りは、読み終わるまで、ずっと、読み続けてしまう。
他のことが手につかなくなる。
先日も、玉依姫を買って、カフェで読んで、帰ってきて読んで、友達とゲームはしたけど、その後も読んで、読み終わってしまった。
"私は、小説を読み始めたら、他のことが手につかなくなる"
っていうのが予想できて、読み始められない。
もう一つは、喪失感、だろうな。
読み終えてしまった時の、喪失感。
小説は、いつかは終わってしまうから。
ずっと浸っていたいし、ずっと続きを見ていたいのに、終わってしまうから。それがわかってるから。
読み終えた時の喪失感、を予測して、読み始められない。
玉依姫も、読み終えた時の喪失感がすごかった。
つらいな。
楽しかった。読んで良かった。でも、つらい。
確かに八咫烏シリーズは続くけど。だから、これまではそこまで喪失感を抱かなかったけど。
玉依姫だけは、別だよなぁ。
多分、もう志帆には会えない気がする。出てきたとしても、名前だけだろうな、と思ってしまう。
喪失感。
…実は玉依姫の続き、弥栄の烏も読み終わってしまった今、もう一つ理由を見つけてしまった。
喪失感をいつまでも拭えないのは、その感情を吐き出す場所がないからだ。小説を読んで感じた色んなことを、共感する相手がいない。
私がこう思った、ってことを、同じものを読んだ人に話したいし、その人がどう思ったかをすごい聞きたい。
周りに、同じものを読んでいる人がいない。ってわかってるから、誰とも共感できない、のも苦しくて、手が伸びないかもしれないな。
苦しい。本当に苦しい。
一言では表せない、色々な思いを聞いて欲しい。
と色々あるけど、結局、私は小説が好きだし、いつかは、読んでしまうんだろうな。
玉依姫を買ったきっかけ
これまで八咫烏シリーズを読んできて、確か、明確に「日本」との繋がりが記載されている部分はなかったと思う。うーん。記憶が曖昧だけど。
八咫烏の世界は「山内」というところで、その世界には八咫烏しかいなかった。それなのに、人?食い猿が侵入してくるようになってきて大変…っていうのが、私が最後に読んだ「空棺の烏」までの話だった。
ただ、異界というのはあった。山内の外の世界である異界の商品を持ってきてくれる「天狗」という存在については記述があった。
結局、それが日本だったんだけど。
それまでは、彩雲国のような、本当にその世界しかない世界、と思って読んできたから、十二国記みたいに、こちらの世界というものが存在していて、交錯する、っていうのは想像してなくて。
それで、次巻の「玉依姫」のあらすじを読んだ時に、「日本が出てくるんだ」と思って。その時点で心が追いつかなくて、中々買えなかった。
やっと八咫烏の世界に慣れてきたのに、次は日本が出てくるのか、と。
本屋に行く度に、表紙は目に入ったけど、買えなくて。
ずっと買えないまま、5ヶ月くらい過ぎた。
そして先日の日曜。家を出てから、夫がカフェで本を読むつもりであることを知った。そもそも、カフェで作業しようって言い出すのはほとんど私だったから、びっくりした。家にいる時に言ってくれたら、家から本を持ってきたのに。
仕方なく、カフェの前に本屋に寄ることにした。そこで何か買おう。
漫画コーナーと小説コーナーを何周もしたけど、見つからない。まぁ、そんなあてどなく探して見つかるものではない。私はなんでも読める訳ではないんだから。
後宮の烏の新刊はまだ。レアリアもまだ。彩雲国の角川文庫版はどこまで買ったか覚えてない。最近買った推理小説系の人の別の本もない。
そもそも私は、知ってる作家の本、しか、中々買えないんだった。
結局何十分も悩んで、玉依姫を手に取った。
何も知らない小説よりは、知ってる世界だから。
ここにある本たちの中で、一番入りやすいのは間違いなく、八咫烏だったから。
手に取って、多分、今なんだろうな、と思った。
彼が突然カフェに行くって言い出して。他に読みたい本が見当たらなくて。
多分、私が玉依姫を手に取るきっかけをくれたんだな、と思って。
素直に買った。
読み始めたら結局、その日に読み終わってしまった訳だけど。
読んでみた玉依姫は、結構日本神話の話だった。
そこに出てくる言葉たちは、半年前の私では理解に苦しんでたと思う。
今の私がなんとなく理解できたのは、SHの新曲が日本神話系で勉強したからだ。古事記を読んだから。
この半年間、少しずつ日本神話に触れてきたからだ。
(そういえば、SHの為に古事記を読んだ時に、「玉依姫も八咫烏も出てくる!!」って感動した記憶がある)
だから、今だったんだな、今まで、取っておいたんだな、という気がして。嬉しくなった。玉依姫をきっかけに勉強する人もいるのかもしれないけど。私の熱量的に、SHを理解するためだったから日本神話を勉強できた。その知識があったから、玉依姫を読めた。
それがとても、嬉しかった。
玉依姫の感想(※ここからネタバレを含みます※)
読み終わって、まず単純に思ったのは、「スッキリした終わりだな」ということ。
八咫烏シリーズではあるけど、舞台は日本と神域がほとんどで、山内の描写はあまりない。山神と、志帆のお話。その2人のお話として、綺麗に終わったな、という印象。(しかし次巻の弥栄を読み終わった私は、実はそうでもなかったな、とも思う)
1巻の「烏に単は似合わない」は、衝撃の終わりだった。それはもう、すぐには受け入れられないくらいの衝撃があった。2巻の「烏は主を選ばない」では、あ、これが本編なんだ、っていう驚きと、1巻との若宮への印象の差がすごかった。
それから、いくつかの事件があって、うん、事件の途中だった。どうなるんだろう、っていう。
だから、その中での玉依姫は余計に「綺麗な終わりだな」という感じだった。(でも、そうじゃなかったよね!って弥栄で思ったから!早く弥栄の感想も書きたい!!)
・人外を人外たらしめているもの
ストーリーにも関係することだけど、一般的な話としても印象的な言葉があった。
天狗が語る、「人外を人外たらしめているもの」とは何か、ということ。
八咫烏や天狗、山神、というものがそうであるのは、まず1つ目に、「自分がそうである」と自覚していること。2つ目に、他者から「そうである」と認識されていること。
「人外は、人間がいるからこそ、成立するもの」
という言葉にも、はっとした。
天狗の話は、「山神が本来の名前を忘れている」という文脈で語られたものではあったけど、この話が、まさか伏線になっているとは思わなかった。読んだ時は単純に、人外としての自覚、か、っていうところに関心してたんだけど。最後に志帆が『英雄』の正体について語っていた部分で、伏線でもあったことに気付いた。
彼自身が自分を『英雄』だと言い、他者である天狗や奈月彦が、彼を『英雄』だと認識したからこそ、彼は『英雄』になれた。すごい。
あとは、「名前を忘れたから、本来の姿や記憶、がない」っていうところ、千と千尋の神隠しを思い出した。ハクが実は神様だった、ってとこ。千尋との会話で、名前を思い出すところ。しかも、ハクも龍神だったよね。なんか、重なったな。椿の見た目も、ハクに似たようなおかっぱを想像しながら読んでた。
・日本神話
今まで八咫烏シリーズを読んできて、本当に、異世界の話なんだと思ってた。日本とか地球とか関係のない、異世界。彩雲国みたいな。
でも、違った。山内にとっての「異界」は、いや、外界、は日本だった。それどころか、山神は日本神話の存在だった。八咫烏も、半分はそう。
日本神話に出てくる神様の話で、日本の動乱が関係していて、日本にある、ある山に住んでいる神様で、その山の中に、山内がある。
完全に、日本の中だった。
それが、ほんの少し、違和感というか、受け入れがたかった。
なんだろう。
ファンタジーに出てくる神様は、その世界の神様だったから、現代にも語られる神様、であることはなくて。十二国記も、若干中国の神様っぽい人たちはいるけど、あくまでモデルにしてるんだろうな、くらいで、そこには独自の体系があったと思う。でもこの八咫烏の山神は、日本神話の話で。
いや、実際にそう、というわけではないけど、実際の日本神話の内容を借りているもので。
今までとは違うな、という感じ。
受け入れ難い、っていうか、慣れてない、だけなんだろうな。
ただ、これは私の知識がなくてわからないけど、「和魂と荒魂」っていう考え方が、いいなと思った。日本神話の考え方なのかな?
神様には柔和な部分と荒い部分があるもので、それぞれの側面を和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)と呼ぶ。その両方で1つの神様ではあるけど、神様や場所によっては、それぞれが分離されて、別の名前があったりする。
今回で言えば、化け物になりかけてた山神は荒魂で、『英雄』を名乗っていた彼が、実は和魂だった。と。
全然関係ないけど、私が思ったのは、キリスト教だった。
昔からずっと思っていたのは、旧約聖書に描かれている神様と、新約聖書に描かれている神様の性格違いすぎないか???ってことだった。唯一の神であるはずなのに、違いすぎる。旧約聖書の神は、選民思想で、戦いの神。敵を討ち滅ぼして、ユダヤの民を勝たせてくれる神。でも新約聖書の神は、全ての人を愛する神。敵を愛しなさい、と言う神。真逆くらい違う。
それを最近は、「旧約聖書はユダヤ教の聖典で、新約聖書はキリスト教の聖典だから、違うんだろうな」と思ってたけど、この和魂と荒魂の考え方に触れると、旧約聖書が荒魂で新約聖書が和魂かな?とか思っちゃった。どっちも側面の一つであって、唯一の神には変わりないのか。とか。そういう考え方って、いいな、っていうか楽だな。
・作者のすごさ
八咫烏シリーズを読む度に思うのは、作者すごいな、ってこと。
単純に、これを書いたのもすごい、けど。
実は、八咫烏シリーズで最初に考えられたのはこの5巻である玉依姫で、しかもその原案は高校生の時に書いたものらしい。
高校生の時点で、この話を考えていたのか。
そして、「烏に単は似合わない」を書いたのが20歳。
私と3つしか違わない作者。
なんだろう、やっぱり私は年齢をすごく気にしてしまうから。
「20歳でこれだけのものを書いた」
「今30くらいでこれだけの本が出てる」
ってことに、すごいな、と思う反面、辛くなる自分がいる。
私もそうでありたかった。
「年齢じゃないよ」って言われる。「始めるのはいつからでも遅くないよ」っていう言葉がある。
「まだ、書いてないからわからないじゃん。すごいものが書けるかもしれない。」
そう思ってきた、けど、違うな、って思った。
"まだ書いてない"
ってのが、答えなんじゃないか、って。これまで、1ミリでも書きたい気持ちは持ち続けてたけど、"まだ書いてない"。それが、答えでしょ。
あ、諦める時なのかな、と思っちゃった。諦めるというか、認める。
才能っていうのは、その技量じゃなくて、それをやり続けられることだな、と最近思う。私には「書き続ける」才能がなかった。
なんだろう、諦められた、っていうか、少し、吹っ切れた気がする。
まぁ、その無力さに、たまには抗いながら、いつかは書き上げる時があるかもしれない。それは別に、趣味の範囲でいいよね、って。
なんか、必要以上に辛くなるのはやめよ、つらい、っていうか、作者のすごさに感動してるだけだから。すごい。
こういう、異国風ファンタジーを書く人って、ファンタジーではあるけど、何かしらはモデルにしてるはずで。十二国記の春官夏官とか、彩雲国の六部とかは、歴史上の中国の朝廷システムだし。それで、めっちゃ勉強してるんだろうな〜って思いながら読んでるんだけど、この八咫烏シリーズの作者、阿部智里さんは、文学部で東洋史系を研究してるらしい。
なるほど!それで。
日本神話だし、和っぽい感じなのか、と。
ってか今更だけど、八咫烏が中華風というよりは和風だったのは、本当に、和だったからなんだなぁ。
まぁ、逆か。
日本神話を土台にした「玉依姫」っていう原案があったから、そこから八咫烏シリーズを書いていく為に、東洋系の方に進んだのかもな。
いいな。そういう人生。
なんで私は理系に行ったんだろう〜〜〜〜〜。
趣味も得意も完全に文系だったのにな〜〜〜〜〜〜〜〜。
まぁ、中高の時点で現実的だったんだ、私は。
文学部行っても何にもなれないだろうな、って思っちゃったんだよね。理系に行ったからって、その分野で就職する訳じゃないよ、ってあの時の私に教えてあげたい。
感想から外れてしまった。
正直、思ったことはまだまだたくさんあったと思う。
ただ、この感想を書かないうちに、次巻の「弥栄の烏」を読み終えてしまったので、今はどこまでがどっちの話だったかごちゃごちゃになってる。
むしろ弥栄の感想を早く書きたい。書かないと忘れてしまう。
さらに、その2冊の間に、また別の中華風ファンタジー読んだから、その感想も書きたい。
ってことで、一旦ここまでにして、あとは思い出し次第、追記していこうと思います。
誰かと玉依姫の感想を共有したい。
それでは。
ローゼンでした!
人間も、「自然」という摂理の一部では。
こんにちは!
ローゼンです。
先日、友人2人と哲学的な?話をしていて。
人間は本当に自我を持っているのか?という話になった。
その時は言えなかったというか忘れてたけど、最近考えてることがあって。
地球温暖化、ってもう今は何か一つの説が正しい、ってなってるかわからないけど、前は諸説あって、「人間が生み出した化学物質によって」とか、「地球はもともと温暖化と寒冷化を繰り返していて、今の温暖化もそのリズムに過ぎない」とか。
私は結構、後者に近いんじゃないかな、と思う。後者というか両方か。
全ては、自然である、と。
地球が誕生したのも、そこで人類が誕生したのも自然で。
その人間が増えていったのも科学技術を発展させていったのも自然なこと。
発展した技術によって、環境が破壊されるのも、そのことに気づいて環境を守ろうと人間が行動することも自然。
全部、自然なんじゃないかな。
この考えを拡大させると。
今、「種の保存」がどうとかでまたわーわー言ってるけど。
人間自体は増えていってる訳だから、何らかの形で増加が抑えられるのも自然なんじゃないかな、とか。
同性愛も、ノンセクシュアルも、子供を持たない夫婦も、独身を選ぶ人も。当人としては、自分個人が「そうある」と選んだつもりでも、大きな「自然」の枠組みで、「人間の増加を鈍化させよう」っていう流れになってるんじゃないか。
人間が人工知能を作り出したのも、それが進化していくのも、もしかしたらロボットたちに支配される未来も、全部、自然。
なんだろう。
「実際は自我なんてないのでは」
って言った友人と近いかもしれないけど。
浅ましくも、何もかもが人間によって操作できている、と人間は勘違いしてるのでは。
それはもしかしたら、封神演義(漫画)みたいなことかもしれない。
理想の世界を作りたい大いなる存在が、別の星で失敗して、その星と似た地球でまた理想の世界を作ろうとしている、みたいな。
まぁ、そう信じている訳ではないけど、その、自然、っていうのは、人間がどうこう操作できるものではないのではないか。
むしろ、人間は、自然を「向こう側」の物と置いてる気がする…解明するとか、怖いとか、壊したとか、守るとか。じゃなくて、人間も、「自然」っていう摂理の一部なのでは。
というような考えは何の役に立つのか。どう着地するのか。
ってことがどうやら哲学には必要みたい、っていうのは最近本を読んでて知ったんだけど、じゃあどうか、っていうと。
うーん。一見、ニヒリズム感もあるよね。「自我がない」となると。自我がない訳じゃないけど、大きな枠組みがあるというイメージ。
だから、ひとつひとつに反応し過ぎないで、溢れる情報とか周りの常識とかうるさい声だとかを気にしないで、生きたいように生きたらいいんじゃないかな、としてみる。
だって、大きな流れは「自然」だから、「自然が」流れたいように流れていく。
だったら私ひとりが、深刻な顔で悩まなくてもいいんじゃないか。
まぁ、世間がわーわー言うのも「自然」なんだわ。
でも私がそれに反応するかどうかは決めれる。うん。
結局刹那主義みたいになってしまうし、翻って個人主義かもしれないけど。
だって私の視界には限界があって、私の腕の長さもそう変わるものではないし、だったら、今、この手にあるものに注目した方が、幸せかなと思う。
嗚呼、つまり結局は幸せを求める為のものなんだなぁ。哲学…考えるっていうのは。
という話でした。
今度友人にも話してみよう。
3人集まると、それぞれが知識や視点を出し合うから、有意義で面白い。
今度、それぞれが知ってることを教え合おう、とかいう話もした。めっちゃ楽しそう!
ということで私はキリスト教の簡単な歴史などを講義することにした。けど今の知識では教えられるほどではないので、勉強する。し始めてる。
キリスト教入門の本を買ったり、今は聖書を全部読んでみようかな、ってやってる。
哲学と宗教。そして占いを。
語ったり教えたりできるようになりたいな。
まぁ、その3つのことを網羅的に勉強するだけでもめっちゃ楽しいだろうな。
それでは。
ローゼンでした!
「死ぬ気で自分を愛しなさい」
こんにちは!
ローゼンです。
「死ぬ気で」
言ってしまえばこの一言が、この本の全てのような気がする。
「死ぬ気で自分を愛しなさい」
これまで、「好きなことで生きる」とか「自己肯定感をあげる」ような本をいくつか読んできて、表現は違っても言いたいことは大体同じなんだな、と思った。
この本も、基本的には同じだった。けど、強いて言うなら、"死ぬ気で"だ。
本の紹介
「死ぬ気で自分を愛しなさい」
この本は、著者であるカマルがオリジナル版をアメリカで自費出版をしたところベストセラーとなり、その後大幅に加筆をして出版されたものである。
3部構成となっていて、1部では、オリジナルの増強版、自分を愛する理由とその方法について。2部では、オリジナル版の読者から寄せられた質問等から、さらにそれぞれの愛する方法について詳細に説明している。3部は、カマル自身のストーリーである。自分を愛することの素晴らしさを知っていたのに、実践を怠ってしまい、再び人生に挫折し、そこから再び自分を愛するようになるまでの物語。
自分を愛する方法
どのようにして自分を愛するのか。最も簡単で、一番最初に取り組むべきは、「私は私を愛している」と繰り返すこと。声に出せれば文句なしだが、心の中で唱えるのでもいい。ひたすら、繰り返す。
「私は私を愛している。私は私を愛している。私は私を愛している。」
他にもいくつか方法はあったが、とにかくまずはこれ、である。
「心に溝を作り、その溝を深くしていく」という表現がとてもしっくりきた。「私はだめだ」と思ってしまうのは、その溝が既に深くあるから。だから、新しい溝を作って、水がそこを流れるようにする。「私は私を愛している」何度も繰り返すことで、何度もそこを流れることで溝は深くなっていく。深くなれば、次第に、自然にそこを流れるようになる。しかし、元の溝もそう簡単には消えない。気を抜いたらまた古い溝を流れてしまう。だから、ひたすら繰り返す。新しい溝を深くするために。
本では「思考のループ」と名付けられている。
実践は、いつでもいい。朝、起きた時。夜、寝る前。暗い気持ちが出てきた時。むしろ思い出したら必ずやるくらいがいい。何度も何度も。
本当にそう思えてなくてもいい、嘘でもいい。とにかく繰り返すことが重要である。慣れてきたら、感情も合わせてみる。私は私を愛していると、本気で思ってみる。
私がこの本を読み始めてから、そして読み終えてから、唯一試みているトレーニングでもある。特に寝る前に心の中で唱えるのはいい感じだ。それまでは寝付けないことが多かったが、実践を始めてからは気付いたら眠れている。というのも、眠れないのは思考が飛んでしまうからなので、ひたすらひとつのことを考え続ける、というのが良い。
「私は私を愛している」と繰り返しているつもりが、いつの間にか別のことを考えていることもある。「私は私を愛している」と唱えながら、同時に別のことを考えていることもある。それでも、飛んでいることに気付いたら、また戻ってくればいい。「私は私を愛している」
効果はあるか、と聞かれるとなんとも言えないが、溝は確かにできているなとは思う。私は私を愛している、という溝が。環境や状況に対してネガティブな感情を抱くことはあるが、自分自身に対してだめだとか嫌だとかいう感情も減った気がするので、結局効果はあるんじゃないかなと思う。うん。
自分を愛している、と言い聞かせるのは、もしかしたら目新しいことではないかもしれない。他にも、自分自身の過去を許す、とか、誓う、とか。紙に書いて、声に出してみるとか、その紙を石に巻いて遠くに投げてみるとか。
そういうのも結局、よく本で見る方法だと思う。
その結果、勝手に人生が上向いてくるとか。助けてくれる人が現れるとかも、シンクロニシティも、大体同じストーリーだ。
じゃあ、この本に特徴的なことは何かな、と考えると"死ぬ気で"だったんじゃないかな、と思う。
"死ぬ気で"
普通の、自己肯定感をあげるような本では到底見ない言葉である。死ぬ気で。それは、私がずっと逃げていたいものでもある。頑張りたくない。
しかしこの本は「死ぬ気でやれ」と迫ってくる。最愛の人を愛するように。真剣に、本気で、自分自身を愛せ。
3部ではカマルの経験が語られている。彼女に振られて死ぬほど落ち込み、それから再び死ぬ気で自分を愛し始めるまで。
情緒的で詩的な表現も多く、わかりづらい部分もあったが、この章がある意味は、「方法を知っている著者でもこんな浮き沈みがある」ということがリアリティを持って理解できることだと思う。
万事順調な先生が、そのノウハウを教えてくれる、というよりは、この人も、試行錯誤しながら、転びつつも諦めずに継続して、頑張っているんだな、という感じ。
自分を愛しはじめれば、全てが一直線に右肩上がりになる訳ではない。
自分を愛すると前向きに誓った次の日の朝には絶望に打ちひしがれる。それでも愛することを思い出して、辞めずに、なんとか続けていく。浮き沈みを繰り返しながら少しずつ上がっていく。
沈む日があってもいいんだ、あるものなんだ、というのは救い。
ただ大事なのは続けること。それが"死ぬ気で"なんじゃないかな、と思う。がむしゃらに、とは言え、24時間ずっと、起きている間ずっと、と言う訳にはいかない。けど、とにかく1ミリでも思い出したらやる、それを毎日続ける。
最終的に私が感じたのは、何事も続けることだな、ということと、結局何かしらは頑張らないといけないんだな、ということ。
嫌だな、というよりは諦めがついた感じ。
そうか、頑張らないといけないんだ。
それだったらせめて。まずは。頑張ることが「自分を愛すること」ならできるかもしれないな。と。
英語と日本語の差
「私は私を愛している」と書いたが、本での正式な表記は「私はわたしを愛している」である。
しかしさらに元を辿れば、著者は英語で書いているので「I love me」である。
この本に限ったことではないが、著者が日本人でない場合、文化の差をとても感じる。アメリカでの暮らしと日本での暮らしはまるで違うので、3部のカマルの話も、なんとなく世界に入っていけないところはある。
しかし文化はともかく、今回の話に置いて言葉は重要じゃないかなと思う。
自分を許す、という内容のところでは、こう書いてある。
どの文も、「私は自分を許す」で始まり、「〜に関して」で終わる。
倒置法ではない、普通の英語だ。「I forgive me 〜」というだけである。しかし普通の日本語に直せば、「私は〜〜に関して自分を許す」という風になる。
この2つは、全体的な意味は同じでも、大きく違うように感じる。声に出す、もしくは心の中で唱えるという場面においては特に。「私は許す」とまず言ってしまうことが大切なような気がする。自分に言い聞かせているような、何かしらの強さがある。「私は愛している」も同じ。
例えば、友人と喧嘩別れした自分を許したい場合。
「私は、友人と喧嘩別れしてしまった私を…」
と言っている間に、様々な思いが浮かぶ。当時の情景。経緯。感情。自分に対するネガティブな思いどころか、友人に対しても腹が立ってくるかもしれない。
そのあとで「許す」と言う頃には、それはなかなか難しいような気がしているかもしれない。
ではなくて、「私は許す」とまず言ってしまう。そこで、もう許すことは決まっている。許す、と言ったのだから。その後はなんでも言える。その言葉の強さ、というものはあると思う。
「私は私を愛している」も然り。
「私は私を…」の間に、(今から"愛している"と言う予定ではあるが、実際はそんなこと思えてないし、言い続けたところで本当に変わるんだろうか云々)と考える時間ができてしまう。
私は愛している、と言ってしまう。それであれば、大切な人に向けて言うのと同じくらいの気持ちで言えるかもしれない。私は愛している。私を。
じゃあ、勝手に倒置法で言えばいいじゃん。と言われてしまいそうだし、実際そうなんだけど、それがわざわざの倒置法なのか、普段と何も変わらない文法なのか、はやっぱり違う気がする。
いや改めて英語を話すっていうのは、それだけで強くなれそうだな、と思ったり。
雑感想
この本は正直、読むぞ!と思って読み進められた訳ではなかった。1部と2部で結構内容が重複していて、私も1週間おきとかに読んでたので、2部では詳細に書いてある、とかもよくわからずに「あれ、なんか同じことめっちゃ繰り返してない?」と思って、続きを読みたい気持ちがあまりなかった。
何故かこの本に関しては栞も使ってなかったので、毎回「どこまで読んだっけなー」とページをパラパラ捲りながら、なんとなく、読んでいた。
そしてようやく辿り着いた3部は、引き込まれるように読んだ。ほとんど小説のようだったので。そして著者が彼女に振られてあまりにも落ち込んでいたので。
著者は死ぬ気で自分を愛してるし、それで健康にめっちゃ気を遣ってジムとか行ってるしで、「ここまでするのか…」とはなりかけたけど、とにかく「自分を愛している」と思えるようになるまで繰り返すのは続けてもいいかもな、とは思った。
死ぬ気で、と、愛しなさい、という命令形に、一瞬身を引いてしまうかもしれないし、その気持ちはとてもよくわかる。でも「自分を責めなくていい」とか「愛せなくてもいい」とか「気に負わなくていい」とか「〇〇しなくてもいい」「〇〇してもいい」という言葉が溢れる中で、結局ふわふわして、どうしたらいいの、ってなる部分もあるんじゃないかなと思う。どうしたらいいの!って。その中で「死ぬ気で自分を愛しなさい!」って言われるのは、それはそれで方向性を示してもらえて有難いのかもしれない。うん。
方法自体はシンプルなものばかりなので、気になった方は実際に読んでみてください。kindle版もあるよ。
最終的には、読んでよかったな、という本です。
それでは。
ローゼンでした!
結婚前の清算。感謝。
結婚を目前にして、どうしても書きたいことがある。
ずっと、今の人と付き合ってから、いやもしかしたらその前から、言いたかったこと。
それでも何故か、なんとなく、今まで言えなくて。
もう、このタイミングしかない。
*
これまで、色んな人と付き合ってきた。
特別多い訳でも少ない訳でもないと思う。
その中で、長年引きずった人が二人いる。
振られても、忘れられなかった人。
もう、何年も会話をしていないし、会ってもしてくれない気がする。
会ったとしても、もうどんな風に喋っていたのか、まるで覚えていない。
それでも消えない思いは、強い感謝だと思う。
*
何かしら名前がないと不便だけど、アルファベットは味気ないので、何かしらの単語にしよう。
一人目は鷹。
中3〜高1の時に10ヶ月付き合った人。
詳しく書くことではない。
簡単に言えば、私が重過ぎて振られたんだろう。でも、嫌われて捨てられたようには思えなかった、だから、諦められなかった…。
初めての彼氏だった。
私は家から1時間半かかる、私立の女子校に通っていて、中3になる頃には、ほとんど小学校の友達とは疎遠になっていた。しかし、ひょんな事から小学校の同級生である鷹と再会し、付き合い始める。
小学校の時、そんなに交流がある訳ではなかった。ただ、中学に上がった鷹は、小学校の頃の私が仲良くしていた友達とよく遊んでいたようだった。
鷹と付き合い始めた私は、自然と、再び地元の友達と遊ぶようになっていった。
鷹と別れた頃、高校でも孤立した。
その時の私を支えてくれたのは、鷹が再び繋げてくれた、地元の友達だった。
その、いつものメンバーから、なんとなく鷹が離れていったのは辛かったし、申し訳ないとも思ったが、それでも、あの時の私は、あそこに居場所があったから生きていけた。
もう今となっては、頻繁に連絡を取る人も減ってしまったが、連絡さえすれば会えるだろう。連絡がなくても安心できるような。そんな人たちだ。
鷹と再会していなければ、私は。再び繋がれることもなく、一人寂しく生きていたんだろうか、と思う。
みんなで一人の家に集まって、顔を付き合わせてモンハンをして。馬鹿みたいに笑って。
それで私は、「こいつらが私が作ったゲームでこんなに笑顔になってくれたら嬉しいだろうな」と思って、ゲームクリエイターを目指した。
だからこそ、あの大学を目指して、受かって。
そして、結婚する彼と出会えた。
その2つの意味で、感謝している。
もう、会うことはないかもしれないけど。
貴方かはわからないけど、別れて結構経ってから、私のブログにあった無名のコメント。
「もう貴方を好きとは言えない。好きではないからだ。でも、覚えている。思い出さないけれど、ずっと奥底で覚えている。それが、愛だ。」
もう、そんな感情はないかもしれない。
本当に私のことは忘れてしまっているかもしれない。
それでも、あのコメントが貴方だと信じられたから、私は最終的に諦めることができたし、次に進めたんだと思う。
ありがとう。
ここに辿り着くこともないだろうけど。
鷹のおかげで、地元と繋がれた。
前に進めた。
彼と、出会えた。
ありがとう。
*
二人目は竜。
それは本当に、伝説の存在のように。本当に私の人生にいたんだろうか。と思うような。
竜とは大学1年〜2年の時に、8ヶ月、付き合っていた。
竜はv系が好きで、大学では軽音部に入ってギターを弾いていた。
それまでの私は、サンホラとボカロ、たまにアニソン、くらいで、ほとんどサンホラ(Sound Horizon)が全てというくらいだった。
大学に入る頃にリンホラ(Linked Horizon)が始動したかな。
サンホラは、どちらかというと敬遠されるものだった。
よくわからないもの。変わっているもの。ちょっとおかしい。狂ってる。コスプレ集団。宗教みたい。
私は大好きで、好きであることが誇りですらあるけど、よく知らない世間の遠目からの当時の評価は散々だったと思う。
そこから、紅蓮の弓矢がヒットし、少し有名になり始めた頃。
竜は付き合う前、私にリンホラのRevoさんのピックをくれた。
「いい曲だと思う。」
それまで、そんなことを言われたことはなかった。一時期付き合っていた彼氏にさえ、貶された。
だからそれだけで、救われた気がした。
それから付き合って、一緒にカラオケに行くようになった。
カラオケで竜が歌う曲を聞いて、気になって、音源をもらった。
それまでの私はv系という言葉すら知らなかったかもしれない。
the GazettE、Plastic Tree、Acid Black Cherry
PIERROT、シド、ヴィドール
Alice Nine、DIV、R指定
X、LUNA SEA
私はv系を知って。
それまでボカロとサンホラしかなかった私のiTunesに、v系の曲が溢れた。
今まで聞いていたものと全く違う毛色なのに、気付いたら私はv系を好きになっていた。
その頃、高校で、なんとなく仲良くしていた子と再会した。
ジャニヲタだったその子は、(ジャニも変わらず好きだけど)なんとv系が好きで、今はバンドマンと付き合っている、という。
秒で意気投合した。
それまでの仲では考えられないくらい、遊ぶことが増えた。
その子とは今でも繋がっている。
これも竜が、私にv系を教えてくれたからだ。
そして、竜がくれた音源の中に、Jupiterというバンドがあった。
その頃のJupiterは今よりもシンフォニック寄りで、歌詞もどちらかというと耽美派のような雰囲気だった。
歌詞に出てくる「décadence」という単語が引っかかった。サンホラでも聞いた言葉だ。
他にも、サンホラと親和性が高いような部分がたくさんあり、私はJupiterというバンドに興味を持った。
調べていくと、Jupiterとほとんど同じメンバーで、Versaillesというシンフォニックメタルバンドがあることを知った。それからVersaillesを聴きまくった。
今では、サンホラに並ぶくらい好きなバンドとの出会いだった。
竜がJupiterの音源をくれたからこそ、私はVersaillesに辿り着くことができたんだと思う。
当時は活動休止中だったが、竜と別れたあと復活し、竜のおかげで繋がった子と復活ライブに行き、その子と、そして付き合う前の彼と3人で、武道館ライブに行くことができた。
そしてそもそも、今の彼と仲良くなれたのも、v系がきっかけでもあった。
大学3年の春、2つ下が入ってきた。
まずVersaillesが好きだという男子とv系話で意気投合し、その後、そいつか「こいつもv系好きですよ」と紹介してきたのが、今の彼だった。(その前に知り合ってはいたが、お互い野球の話しかしていなかった。)
直接的には、たくさんの音源をくれただけかもしれない。
それでも、そのおかげで、私の世界は本当に広がったと思う。
友達とメジャーだけじゃなくて、インディーズのライブにも行くようになったし、Versaiiles好きの男子からは、さらに大量の音源をもらった。
Angelo、LM.C、DIAURA、Dir en grey
MALICE MIZER、黒夢、MUCC、Royz
アンカフェ、vistlip、摩天楼オペラ
何より、彼と出会えた。
もう、あの頃の竜とは別人かもしれないけど。
別に大したことをしたつもりではないかもしれないけど。
ありがとう。
V系を教えてくれて。
あの子と繋げてくれて。
世界を広げてくれて。
彼と出会わせてくれて。
ありがとう。
*
正直、結婚しようとしているところで、元彼の話をするのはどうなんだ、と思うかもしれない。
彼にも、なかなかしない話ではある。
それでも、ずっと抱えていたこの気持ちを、どうにかして言葉にしたかった。
相手に、感謝を伝えたい、というのでは、もはやない気がする。
とにかく私が、感謝しているということを、どこかに表現したかった。
モヤモヤと、伝えたいなぁ、と、元彼に対する何かしらの思いを持ったまま結婚したくなかった。
書けてよかった。
これで、いつでも振り替えられる。
だから、頑張って覚え続けている必要はない。
忘れないけど、忘れられる。
ありがとう。
二人のおかげで、私は幸せになれた。
これからも。