ローゼンの雑記帳

ローランにして薔薇の末裔にしてソウルメイト!の雑記!

私とキリスト教、タロット

こんばんは!

ローゼンです。

 

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(なんとなく記事の内容を踏まえて

 左から愚者、運命の輪、世界のカードと十字架のイヤリング)

 

クリスマスも近いのでこんなお話。

 

突然ですが。

 

まぁ、最初の軽い自己紹介記事で 

rosenstern.hatenablog.com

 

書いてはいるんですけども。

"宗教とか神話も好きです"

みたいな。

 

実はクリスチャンなんですね。

つまりキリスト教徒です。

 

そこで、ひとつ疑問が出てきますよね。

 

「え、クリスチャンって占いとかしていいの?」

 

っていう。

それについて考えてみようかな、と。

 

ただ、ひとつ言うと

私は熱心なクリスチャンではない、です。

 

そもそも、クリスチャンなのか、すら微妙です。

 

ではクリスチャンとは何か。

キリスト教徒とは。

 

一般的には

イエス・キリストを救い主であると信じている人」

なんだと思います。

 

もっと砕いて言えば

「イエスを唯一の神だと信じている人」

です。

 

でも、"クリスチャン"というのは、

「洗礼を受けた人」

です。

 

洗礼…

「信じています!」と宣言する儀式、のようなものです。

 

まぁ、宗派によってまた色々あるんですが

少なくとも私のところでは、そうです。

(大まかに言うとプロテスタントです)

 

なので、洗礼を受けたらクリスチャンになれます。

でも、クリスチャンでなくなる儀式はありません。

 

受けたあとで、やっぱり信じない、となったら

「私はクリスチャンではない」

と自分で言うしかありません。

 

ここから私のお話です。

私は両親共にクリスチャンの家庭で生まれ育ちました。

物心つく前から、毎週日曜日は教会でした。

 

だからクリスチャンでない人が

"クリスマスはイエスの誕生をお祝いする日"

であると、いつどこで学ぶのか

私にはわかりません。

 

それは、私の中では1番の常識でした。

 

もちろん、幼い私は熱心に信じていました。

中学1年の今日、12月23日に洗礼を受けました。

 

神社では参らない、

仏式のお葬式では、焼香もできればしたくない

 

そんな、他を排除するほどの

敬虔なクリスチャンでした。

 

中高はキリスト教学校の一貫校でした。

その中学に入学して、学年が進むに連れ、

私の心は教会から離れていったような気がします。

 

離れてしまった決定的な理由はよく覚えていません。

もしかしたら、ないかもしれません。

いろんなものが積み重なった結果だったと思います。

 

クリスチャンは皆、"できた人間"だと思っていました。

でも、どうやらそうではないらしい。

成長して、教会の大人たちの言い合いを目にする機会が増えたからでしょうか。

クリスチャンも、唯の人間なのだ、と知りました。

 

"祈れば"叶うのだと思っていました。

「友達が教会に来ますように」

「世界が平和になりますように」

毎晩毎晩、祈っても何も叶いませんでした。

結局、行動しなければ意味がないのだと知りました。

 

大好きだった牧師が2人続けて

同じ病気で、若くして、亡くなりました。

私が何も知らされず

「早くよくなりますように」

とお祈りした時には、もう天に召されていたのでした。

 

父は"一応"クリスチャンでしたが、

仕事もあり、教会に行くのは年に数回でした。

そんな父はよく、母に向かって

「教会のことばかりして、家のことは何もしない」

と怒鳴りつけるのでした。

キリスト教は、我が家に不和をもたらしたのでした。

 

キリスト教学校では、聖書の授業があります。

そこで、聖書の成り立ちを学びます。

「創世記は何時代に何民族が」

ノアの箱舟は何時代に何民族が」

「「作りました」」と。

 

私は幼い頃から飽きるほど聞いてきたその話が

実際に起こった話だと思っていました。

 

さすがに、小学生になる頃には薄々、何かを感じていました。

「地球は数日間で作られたのか?」

「人は、猿から進化したのではないのか?」

でも、見ないフリをしていたのに。

 

授業で、"勉強"した。

それが、"事実"だと。

 

「神の威光を後世に伝える為に、例え話として物語にしたんだよ」

 

と言われても

そんなこと、教会の誰も教えてはくれなかった、と。

 

(※宗派によっては、聖書に書かれたことは本当に起こったことだとしている場合もあります)

 

学校では、聖書が道徳と同じように使われていました。

「"求める物は与えられる"だから勉強しなさい」と。

私は、そうではない、と強く感じました。

 

聖書は、道徳を教えているものではない、と。

 

高校に入り、Sound Horizonに出会いました。

そこからギリシア神話に出会いました。

 

教会でギリシア神話を読んでいる私に

母は「本をしまえ」と言うのでした。

 

高校では世界史を学びました。

様々な宗教が出てきます。もちろんキリスト教も。

 

そこで、「キリスト教徒だ」という人々が

何をしたのか、しでかしたのか

学びました。

 

十字軍、魔女裁判コンキスタドール

レコンキスタ、宗教革命。

 

凄惨な過去です。

これが、私たちの先人か。

これが、キリスト教がもたらしたものか。

とても誇れない、と思いました。

 

教会でも習わない。

今のカリキュラムでは世界史を全く勉強しない可能性もある。

ということはこの凄惨な過去を知らない人もいる。

 

そんな状態で

「神様!イエス様!」

と手放しで賛美できる同年代に、怖さを感じました。

 

もし信じるのであれば

これまでの全ての過去を背負って

「クリスチャンです」

と言う必要がある、と私は思いました。

そして私は「背負えない」と思ったのでした。

 

さらに世界史では、宗教の成り立ちも学びます。

 

"キリスト教の終末思想はゾロアスター教の影響だ"

 

と聞いて。

ショックを受けたのでした。

 

唯一絶対で

唯一正しいのではなかったか。

私が信じていたものは。

 

他の宗教の影響を受けているって。

 

それこそ教会では誰も教えてくれませんでした。

 

やがて「宗教とは何か」を考えるようになりました。

人々において宗教はやはり倫理であり、道徳であり。

生きる道標である。

でもそれは人が作ったものです。

 

神道の神話も聖書も仏典も聖典

全て人が書いたものです。

 

だとしたら、何かを信じるとしても

キリスト教でなくてもいいな」

と感じたのです。

 

人生の指針が欲しいなら、なんでもいい。

大体は同じです。

 

「隣人を愛しなさい」

「父母を敬いなさい」

「争うな」

 

そしてもしかしたら

「善行を重ねれば救われる」

 

同じです。

 

だから私はキリスト教

宗教であってほしくなかった。

 

昔、ある牧師が

キリスト教は愛の宗教ではない」

と言ったのをよく覚えています。

衝撃で、そして心に刺さりました。

 

キリストは唯一の神で

キリスト教は、そのキリストを崇め奉るもの

 

世界を平和にするものでも

人の道を教え導くものでもない

 

聖書は倫理や道徳、人の道を教えているのではない

神は唯一であることを教えている

 

そしてそれが正しい

 

のであれば、私は信じたと思います。

そして信じたかった。

もし、本当にそうであるならば

キリスト教が唯一解であるなら

それは信じる意味もあるからです。

 

そんなことを高校3年生くらいの時に

考えていました。

 

そして中高生の集まりで、

担当の牧師にそのことを相談しました。

 

「宗教」という言葉を

そんな簡単に使うべきではない、

と言われました。

 

私は、

私の考えは受け入れられなかった、と思い

ひどく落胆しました。

 

私の大学受験を支えてくれたのは

Sound Horizonであり

Moira-ギリシア神話の運命の女神-であり

Nike-同、勝利の女神-でした。

 

"何か見えないものを信じる心"が

教会生活によって培われたのは、本当に感謝しています。

 

ただ、もういっかな、ってなったのです。

まだ他にも要因はありますが…。

 

 

それでも私は一応

「クリスチャンです」と言う資格はあります。

洗礼を受けているからです。

 

大学に入り、一人暮らしをきっかけに

教会に行くのをやめました。

 

実家に帰った時くらいは

もともと通っていた教会に行きましたが…。

 

そして「クリスチャンだ」とは

言いづらくなりました。

もうそんなに信心深くはないからです。

 

でも、「クリスチャンなの?」と聞かれて

「違います」と言いたくない自分もいました。

 

よくわからない状況でした。

 

「あまり信じられてはないけど、

  もし信じるならキリスト教かな」

 

みたいな感じでした。

 

どちらかというと

「運命」

を信じていたように思います。

 

まぁ、中二病も西洋趣味も世界史好きも

もしかしたら教会が要因かも…。

 

 

なので私は

"キリスト教と距離は近いけど

 それ以外の何かも信じることができる"

状態になったのですね。

 

だからタロットも受け入れました。

"たまたま引いたカードが教えてくれる"

というのはほとんど

"運命"を信じるのと同じに感じました。

 

それこそ敬虔なクリスチャンである母は

元号が嫌いだし

国歌斉唱では立たないし

ギリシア神話にいい顔をしないし

ホラーも占いも嫌いです。

 

私は、やっぱり染み付いているのか

国歌斉唱では立てないですが

君が代自体はかっこいいなと思うし

元号は受け入れられるようになりました。

 

そんな人生でした。

 

 

キリスト教に関して現状は、というと。

少し教会に行きやすくなりました。(気分的に)

信心の浅さは変わりませんが。

 

今の彼氏、と付き合う前。

私は片思いをしていました。

 

そんな状況でたまたま、キリスト教の話になりました。

そして彼が

「僕、クリスチャンですよ」

と言ったのです。

 

衝撃でした。衝撃だったけど私は

たった一瞬の間を置いて

 

「え!私もよ!!」

 

って言ってしまったんです。笑

 

知り合いがたまたまクリスチャンだった

というのが初めてで嬉しかったのと

 

好きな人と共通点がある!

という嬉しさで。

 

たったそれだけで私は

「私もクリスチャンよ」

と言ってしまった。笑

 

「え、宗派は?」

「僕はカトリックです」

「そうなんだ、私はプロテスタント!」

 

そんな会話ができることが嬉しかった。

他の人たちにはわからない、私たちだけの会話。

 

 

「小さい頃からずっと信じてました。

 でも、クリスチャンって結局人間だなってわかって。」

 

それも一緒だった。

でも彼は「自分はクリスチャンだ」と言い、

イースターとクリスマスくらいは教会に行く。

 

それで少し楽になったんだと思います。

言っていいんだ、って。

 

自分の立場はやっぱり明確にはできないけど

キリスト教は宗教か否か

信じるに値するか否か

 

でも言っていいんだ、って。

 

ギリシア神話もタロットも好きだけど

教会にもたまに行く。

 

聖書にも、ギリシア神を信じる人々がでてきます。

新約聖書で、パウロ

 

アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。(略)」

 

と言うのです。

この言葉、というよりは

「知られざる神に」

と刻んだアテネの皆さんに感動しました。

 

知られざる神にまで敬意を払うその姿に。

 

それから私は神社にも行けるようになりました。

正式な作法を守るのはやっぱり苦手ですが

鈴?をカラカラ鳴らして

「こんにちは」とお辞儀をしています。

 

誰かが信じている神に対しての、最低限の礼儀です。笑

 

 

とてもとりとめのない

脈絡もない話をしました。

 

洗礼を受けてからもう11年(!!!)

色々あったけど

こんな風に深く考えることができるのは

いいことなのかな、と思います。

 

私はこれからも

こんな感じでいくんだろうなぁ。

 

高すぎた理想を

壊されたものに

まだ高い理想を抱いて。

 

キリスト教の信仰に関する討論は是非!笑

 

私は本当に、文学部とかで

比較宗教学とかだったら!

修論も書けただろうなぁ!!

 

何が言いたかったのか忘れました。

 

つまり私は

クリスチャンであり

占い師(?)でもあるのです!

 

以上!

 

あ、最後に

「占いなんかして神は怒らないのか?」

と思いません?

 

でもそれこそ今日、クリスマス礼拝で

クリスマスのお話を聞いたんですけど

てか知ってたはずなんですけど

 

「救い主御子がおうまれになる」

というとてもありがたいお告げ!を

初めて聞かされたのは、聞いたのは

"東方の占星術学者"

なんです。

星を読んでいたら、そういうお告げが出た、と。

 

神は、異国の(異教の)者にも

福音を告げられたんですよ。

 

じゃあタロット占いしててもよくないですか?笑

 

そして本当に神がいて、

私たちを愛してくれているなら、

 

別に適当な信仰でも愛してくれるだろ!

と思いませんか?笑

 

そんな感じです!

 

 

それでは。

ローゼンでした!!