ローゼンの雑記帳

ローランにして薔薇の末裔にしてソウルメイト!の雑記!

人間も、「自然」という摂理の一部では。

こんにちは!

ローゼンです。

 

先日、友人2人と哲学的な?話をしていて。

人間は本当に自我を持っているのか?という話になった。

 

その時は言えなかったというか忘れてたけど、最近考えてることがあって。

 

地球温暖化、ってもう今は何か一つの説が正しい、ってなってるかわからないけど、前は諸説あって、「人間が生み出した化学物質によって」とか、「地球はもともと温暖化と寒冷化を繰り返していて、今の温暖化もそのリズムに過ぎない」とか。

 

私は結構、後者に近いんじゃないかな、と思う。後者というか両方か。

 

 

全ては、自然である、と。

 

地球が誕生したのも、そこで人類が誕生したのも自然で。
その人間が増えていったのも科学技術を発展させていったのも自然なこと。

発展した技術によって、環境が破壊されるのも、そのことに気づいて環境を守ろうと人間が行動することも自然。

 

全部、自然なんじゃないかな。

 


この考えを拡大させると。

 

今、「種の保存」がどうとかでまたわーわー言ってるけど。
人間自体は増えていってる訳だから、何らかの形で増加が抑えられるのも自然なんじゃないかな、とか。

 

同性愛も、ノンセクシュアルも、子供を持たない夫婦も、独身を選ぶ人も。当人としては、自分個人が「そうある」と選んだつもりでも、大きな「自然」の枠組みで、「人間の増加を鈍化させよう」っていう流れになってるんじゃないか。

 


人間が人工知能を作り出したのも、それが進化していくのも、もしかしたらロボットたちに支配される未来も、全部、自然。

 


なんだろう。

「実際は自我なんてないのでは」
って言った友人と近いかもしれないけど。

 

浅ましくも、何もかもが人間によって操作できている、と人間は勘違いしてるのでは。

 

 

それはもしかしたら、封神演義(漫画)みたいなことかもしれない。
理想の世界を作りたい大いなる存在が、別の星で失敗して、その星と似た地球でまた理想の世界を作ろうとしている、みたいな。


まぁ、そう信じている訳ではないけど、その、自然、っていうのは、人間がどうこう操作できるものではないのではないか。

 

むしろ、人間は、自然を「向こう側」の物と置いてる気がする…解明するとか、怖いとか、壊したとか、守るとか。じゃなくて、人間も、「自然」っていう摂理の一部なのでは。

 

 


というような考えは何の役に立つのか。どう着地するのか。
ってことがどうやら哲学には必要みたい、っていうのは最近本を読んでて知ったんだけど、じゃあどうか、っていうと。

 

うーん。一見、ニヒリズム感もあるよね。「自我がない」となると。自我がない訳じゃないけど、大きな枠組みがあるというイメージ。

 

だから、ひとつひとつに反応し過ぎないで、溢れる情報とか周りの常識とかうるさい声だとかを気にしないで、生きたいように生きたらいいんじゃないかな、としてみる。

 

だって、大きな流れは「自然」だから、「自然が」流れたいように流れていく。

だったら私ひとりが、深刻な顔で悩まなくてもいいんじゃないか。

 

まぁ、世間がわーわー言うのも「自然」なんだわ。
でも私がそれに反応するかどうかは決めれる。うん。

 

結局刹那主義みたいになってしまうし、翻って個人主義かもしれないけど。
だって私の視界には限界があって、私の腕の長さもそう変わるものではないし、だったら、今、この手にあるものに注目した方が、幸せかなと思う。

 

嗚呼、つまり結局は幸せを求める為のものなんだなぁ。哲学…考えるっていうのは。


という話でした。
今度友人にも話してみよう。

 


3人集まると、それぞれが知識や視点を出し合うから、有意義で面白い。
今度、それぞれが知ってることを教え合おう、とかいう話もした。めっちゃ楽しそう!

 

ということで私はキリスト教の簡単な歴史などを講義することにした。けど今の知識では教えられるほどではないので、勉強する。し始めてる。

 

キリスト教入門の本を買ったり、今は聖書を全部読んでみようかな、ってやってる。

 


哲学と宗教。そして占いを。
語ったり教えたりできるようになりたいな。
まぁ、その3つのことを網羅的に勉強するだけでもめっちゃ楽しいだろうな。

 

 

 

それでは。

ローゼンでした!

 

 

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