「玉依姫」を読みました&私が小説を読み始められない理由
こんにちは!
ローゼンです。
※本格的なネタバレは「玉依姫の感想」からですが、それまでも八咫烏シリーズ全般の若干のネタバレを含みます※
私が小説を読み始められない理由
私は小説が好きなんだけど、読み始めるまでに結構時間がかかったりする。
前noteの記事でも似たようなことを書いていて。
小説でも漫画でも
新しい世界に飛び込むには、気力がいるのだ。
それも、とてつもない気力が。
「私はこれを好きになれるだろうか」というプレッシャーを抱えながら、新しい世界と新しいシステムに少しずつ慣れていく。
せっかく慣れたのに好きになれなかったら、それまでの労力が無駄になってしまいそうで怖いんだと思う。
これが2月の記事。今は7月。
この間、本当に、買わなかった。八咫烏シリーズの続きを。
八咫烏の続きを中々買えなかったのは、上記の通り、「気力が必要」だったからだと思う。これについてはまた後で書くけど。
ただ、私が小説全般、読み始めるのが遅い理由がもう一つあることに気付いた。
それは私の性質でもあるんだけど、
「何かをやろう」と思いかけた瞬間に、その先の未来を勝手に予想して、ネガティブなことを見つけて、やる気がなくなってしまう
これだと思う。
私は小説を読むのが好き。
確かに、世界に入り込むには気力がいる。そりゃ、世界の境界を超えるから当たり前なんだけど。気力がいる。でも、読み始めたら引き込まれていく。
気力をかけた分、引き込まれる。引っ張られる。
だから、用事がない限りは、読み終わるまで、ずっと、読み続けてしまう。
他のことが手につかなくなる。
先日も、玉依姫を買って、カフェで読んで、帰ってきて読んで、友達とゲームはしたけど、その後も読んで、読み終わってしまった。
"私は、小説を読み始めたら、他のことが手につかなくなる"
っていうのが予想できて、読み始められない。
もう一つは、喪失感、だろうな。
読み終えてしまった時の、喪失感。
小説は、いつかは終わってしまうから。
ずっと浸っていたいし、ずっと続きを見ていたいのに、終わってしまうから。それがわかってるから。
読み終えた時の喪失感、を予測して、読み始められない。
玉依姫も、読み終えた時の喪失感がすごかった。
つらいな。
楽しかった。読んで良かった。でも、つらい。
確かに八咫烏シリーズは続くけど。だから、これまではそこまで喪失感を抱かなかったけど。
玉依姫だけは、別だよなぁ。
多分、もう志帆には会えない気がする。出てきたとしても、名前だけだろうな、と思ってしまう。
喪失感。
…実は玉依姫の続き、弥栄の烏も読み終わってしまった今、もう一つ理由を見つけてしまった。
喪失感をいつまでも拭えないのは、その感情を吐き出す場所がないからだ。小説を読んで感じた色んなことを、共感する相手がいない。
私がこう思った、ってことを、同じものを読んだ人に話したいし、その人がどう思ったかをすごい聞きたい。
周りに、同じものを読んでいる人がいない。ってわかってるから、誰とも共感できない、のも苦しくて、手が伸びないかもしれないな。
苦しい。本当に苦しい。
一言では表せない、色々な思いを聞いて欲しい。
と色々あるけど、結局、私は小説が好きだし、いつかは、読んでしまうんだろうな。
玉依姫を買ったきっかけ
これまで八咫烏シリーズを読んできて、確か、明確に「日本」との繋がりが記載されている部分はなかったと思う。うーん。記憶が曖昧だけど。
八咫烏の世界は「山内」というところで、その世界には八咫烏しかいなかった。それなのに、人?食い猿が侵入してくるようになってきて大変…っていうのが、私が最後に読んだ「空棺の烏」までの話だった。
ただ、異界というのはあった。山内の外の世界である異界の商品を持ってきてくれる「天狗」という存在については記述があった。
結局、それが日本だったんだけど。
それまでは、彩雲国のような、本当にその世界しかない世界、と思って読んできたから、十二国記みたいに、こちらの世界というものが存在していて、交錯する、っていうのは想像してなくて。
それで、次巻の「玉依姫」のあらすじを読んだ時に、「日本が出てくるんだ」と思って。その時点で心が追いつかなくて、中々買えなかった。
やっと八咫烏の世界に慣れてきたのに、次は日本が出てくるのか、と。
本屋に行く度に、表紙は目に入ったけど、買えなくて。
ずっと買えないまま、5ヶ月くらい過ぎた。
そして先日の日曜。家を出てから、夫がカフェで本を読むつもりであることを知った。そもそも、カフェで作業しようって言い出すのはほとんど私だったから、びっくりした。家にいる時に言ってくれたら、家から本を持ってきたのに。
仕方なく、カフェの前に本屋に寄ることにした。そこで何か買おう。
漫画コーナーと小説コーナーを何周もしたけど、見つからない。まぁ、そんなあてどなく探して見つかるものではない。私はなんでも読める訳ではないんだから。
後宮の烏の新刊はまだ。レアリアもまだ。彩雲国の角川文庫版はどこまで買ったか覚えてない。最近買った推理小説系の人の別の本もない。
そもそも私は、知ってる作家の本、しか、中々買えないんだった。
結局何十分も悩んで、玉依姫を手に取った。
何も知らない小説よりは、知ってる世界だから。
ここにある本たちの中で、一番入りやすいのは間違いなく、八咫烏だったから。
手に取って、多分、今なんだろうな、と思った。
彼が突然カフェに行くって言い出して。他に読みたい本が見当たらなくて。
多分、私が玉依姫を手に取るきっかけをくれたんだな、と思って。
素直に買った。
読み始めたら結局、その日に読み終わってしまった訳だけど。
読んでみた玉依姫は、結構日本神話の話だった。
そこに出てくる言葉たちは、半年前の私では理解に苦しんでたと思う。
今の私がなんとなく理解できたのは、SHの新曲が日本神話系で勉強したからだ。古事記を読んだから。
この半年間、少しずつ日本神話に触れてきたからだ。
(そういえば、SHの為に古事記を読んだ時に、「玉依姫も八咫烏も出てくる!!」って感動した記憶がある)
だから、今だったんだな、今まで、取っておいたんだな、という気がして。嬉しくなった。玉依姫をきっかけに勉強する人もいるのかもしれないけど。私の熱量的に、SHを理解するためだったから日本神話を勉強できた。その知識があったから、玉依姫を読めた。
それがとても、嬉しかった。
玉依姫の感想(※ここからネタバレを含みます※)
読み終わって、まず単純に思ったのは、「スッキリした終わりだな」ということ。
八咫烏シリーズではあるけど、舞台は日本と神域がほとんどで、山内の描写はあまりない。山神と、志帆のお話。その2人のお話として、綺麗に終わったな、という印象。(しかし次巻の弥栄を読み終わった私は、実はそうでもなかったな、とも思う)
1巻の「烏に単は似合わない」は、衝撃の終わりだった。それはもう、すぐには受け入れられないくらいの衝撃があった。2巻の「烏は主を選ばない」では、あ、これが本編なんだ、っていう驚きと、1巻との若宮への印象の差がすごかった。
それから、いくつかの事件があって、うん、事件の途中だった。どうなるんだろう、っていう。
だから、その中での玉依姫は余計に「綺麗な終わりだな」という感じだった。(でも、そうじゃなかったよね!って弥栄で思ったから!早く弥栄の感想も書きたい!!)
・人外を人外たらしめているもの
ストーリーにも関係することだけど、一般的な話としても印象的な言葉があった。
天狗が語る、「人外を人外たらしめているもの」とは何か、ということ。
八咫烏や天狗、山神、というものがそうであるのは、まず1つ目に、「自分がそうである」と自覚していること。2つ目に、他者から「そうである」と認識されていること。
「人外は、人間がいるからこそ、成立するもの」
という言葉にも、はっとした。
天狗の話は、「山神が本来の名前を忘れている」という文脈で語られたものではあったけど、この話が、まさか伏線になっているとは思わなかった。読んだ時は単純に、人外としての自覚、か、っていうところに関心してたんだけど。最後に志帆が『英雄』の正体について語っていた部分で、伏線でもあったことに気付いた。
彼自身が自分を『英雄』だと言い、他者である天狗や奈月彦が、彼を『英雄』だと認識したからこそ、彼は『英雄』になれた。すごい。
あとは、「名前を忘れたから、本来の姿や記憶、がない」っていうところ、千と千尋の神隠しを思い出した。ハクが実は神様だった、ってとこ。千尋との会話で、名前を思い出すところ。しかも、ハクも龍神だったよね。なんか、重なったな。椿の見た目も、ハクに似たようなおかっぱを想像しながら読んでた。
・日本神話
今まで八咫烏シリーズを読んできて、本当に、異世界の話なんだと思ってた。日本とか地球とか関係のない、異世界。彩雲国みたいな。
でも、違った。山内にとっての「異界」は、いや、外界、は日本だった。それどころか、山神は日本神話の存在だった。八咫烏も、半分はそう。
日本神話に出てくる神様の話で、日本の動乱が関係していて、日本にある、ある山に住んでいる神様で、その山の中に、山内がある。
完全に、日本の中だった。
それが、ほんの少し、違和感というか、受け入れがたかった。
なんだろう。
ファンタジーに出てくる神様は、その世界の神様だったから、現代にも語られる神様、であることはなくて。十二国記も、若干中国の神様っぽい人たちはいるけど、あくまでモデルにしてるんだろうな、くらいで、そこには独自の体系があったと思う。でもこの八咫烏の山神は、日本神話の話で。
いや、実際にそう、というわけではないけど、実際の日本神話の内容を借りているもので。
今までとは違うな、という感じ。
受け入れ難い、っていうか、慣れてない、だけなんだろうな。
ただ、これは私の知識がなくてわからないけど、「和魂と荒魂」っていう考え方が、いいなと思った。日本神話の考え方なのかな?
神様には柔和な部分と荒い部分があるもので、それぞれの側面を和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)と呼ぶ。その両方で1つの神様ではあるけど、神様や場所によっては、それぞれが分離されて、別の名前があったりする。
今回で言えば、化け物になりかけてた山神は荒魂で、『英雄』を名乗っていた彼が、実は和魂だった。と。
全然関係ないけど、私が思ったのは、キリスト教だった。
昔からずっと思っていたのは、旧約聖書に描かれている神様と、新約聖書に描かれている神様の性格違いすぎないか???ってことだった。唯一の神であるはずなのに、違いすぎる。旧約聖書の神は、選民思想で、戦いの神。敵を討ち滅ぼして、ユダヤの民を勝たせてくれる神。でも新約聖書の神は、全ての人を愛する神。敵を愛しなさい、と言う神。真逆くらい違う。
それを最近は、「旧約聖書はユダヤ教の聖典で、新約聖書はキリスト教の聖典だから、違うんだろうな」と思ってたけど、この和魂と荒魂の考え方に触れると、旧約聖書が荒魂で新約聖書が和魂かな?とか思っちゃった。どっちも側面の一つであって、唯一の神には変わりないのか。とか。そういう考え方って、いいな、っていうか楽だな。
・作者のすごさ
八咫烏シリーズを読む度に思うのは、作者すごいな、ってこと。
単純に、これを書いたのもすごい、けど。
実は、八咫烏シリーズで最初に考えられたのはこの5巻である玉依姫で、しかもその原案は高校生の時に書いたものらしい。
高校生の時点で、この話を考えていたのか。
そして、「烏に単は似合わない」を書いたのが20歳。
私と3つしか違わない作者。
なんだろう、やっぱり私は年齢をすごく気にしてしまうから。
「20歳でこれだけのものを書いた」
「今30くらいでこれだけの本が出てる」
ってことに、すごいな、と思う反面、辛くなる自分がいる。
私もそうでありたかった。
「年齢じゃないよ」って言われる。「始めるのはいつからでも遅くないよ」っていう言葉がある。
「まだ、書いてないからわからないじゃん。すごいものが書けるかもしれない。」
そう思ってきた、けど、違うな、って思った。
"まだ書いてない"
ってのが、答えなんじゃないか、って。これまで、1ミリでも書きたい気持ちは持ち続けてたけど、"まだ書いてない"。それが、答えでしょ。
あ、諦める時なのかな、と思っちゃった。諦めるというか、認める。
才能っていうのは、その技量じゃなくて、それをやり続けられることだな、と最近思う。私には「書き続ける」才能がなかった。
なんだろう、諦められた、っていうか、少し、吹っ切れた気がする。
まぁ、その無力さに、たまには抗いながら、いつかは書き上げる時があるかもしれない。それは別に、趣味の範囲でいいよね、って。
なんか、必要以上に辛くなるのはやめよ、つらい、っていうか、作者のすごさに感動してるだけだから。すごい。
こういう、異国風ファンタジーを書く人って、ファンタジーではあるけど、何かしらはモデルにしてるはずで。十二国記の春官夏官とか、彩雲国の六部とかは、歴史上の中国の朝廷システムだし。それで、めっちゃ勉強してるんだろうな〜って思いながら読んでるんだけど、この八咫烏シリーズの作者、阿部智里さんは、文学部で東洋史系を研究してるらしい。
なるほど!それで。
日本神話だし、和っぽい感じなのか、と。
ってか今更だけど、八咫烏が中華風というよりは和風だったのは、本当に、和だったからなんだなぁ。
まぁ、逆か。
日本神話を土台にした「玉依姫」っていう原案があったから、そこから八咫烏シリーズを書いていく為に、東洋系の方に進んだのかもな。
いいな。そういう人生。
なんで私は理系に行ったんだろう〜〜〜〜〜。
趣味も得意も完全に文系だったのにな〜〜〜〜〜〜〜〜。
まぁ、中高の時点で現実的だったんだ、私は。
文学部行っても何にもなれないだろうな、って思っちゃったんだよね。理系に行ったからって、その分野で就職する訳じゃないよ、ってあの時の私に教えてあげたい。
感想から外れてしまった。
正直、思ったことはまだまだたくさんあったと思う。
ただ、この感想を書かないうちに、次巻の「弥栄の烏」を読み終えてしまったので、今はどこまでがどっちの話だったかごちゃごちゃになってる。
むしろ弥栄の感想を早く書きたい。書かないと忘れてしまう。
さらに、その2冊の間に、また別の中華風ファンタジー読んだから、その感想も書きたい。
ってことで、一旦ここまでにして、あとは思い出し次第、追記していこうと思います。
誰かと玉依姫の感想を共有したい。
それでは。
ローゼンでした!